「親父も医者にはなりたくなかった、実業家になりたかった、と言っていましたから、子どもたちには自由にさせようと思ったのではないでしょうか」毅明はオリンピックに向けて自らにムチを打つ。試合の前は朝四時に起きて乗馬クラブへ自転車で向かい、練習の後は家に戻り、そして高校へ。授業中の居眠り、学力低下。学校から両親に呼び出しがある。「家内とジャンケンをし、負けたものが学校へ頭を下げに行きました」毅明は明治大学馬術部へ推薦で入学した。正月の二、三日の休み以外は厩舎で馬との共同生活だった。全日本学生馬術連盟から最優秀賞を受賞するなどオリンピックへの道をひた走った。大学卒業後は、元英国オリンピック選手のマルコム・パイラlのファームに間借りし、手伝いをしながらアトランタオリンピック(一九九六年)へ向けて準備を進めた。「土屋(宮崎市)五輪出場へ」「総合馬術、本県から初」Qも財1il:A-i,.日本ヰリシヒら7委員会会永ーか紘f者会、るなたを制時~p7銑以会(199617Fj得額i塁手として認定いたレ槻1'19. 長記長持番アトランタオリンピック出場の認定証e 84
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