同級生の話によれば、利紀の言う二年間とは日本大学での教養課程のようだ。久留米大学で同級生だった北九州市の伊豆統一郎(皮膚科)は次のように言った。「当時、教養課程を履修していれば、ほかの大学の医学進学コlスを受験できました。久留米大学の同級生も十数人はほかの大学から来ていました」利紀は久留米大学を選択したことについて、次のように話す。「開業医の息子など知り合いの多い久留米大学に入りました」久留米大学の特徴は利紀も言っているように開業医の子どもが多かったことだ。それに、公立の医学部と比べて臨床医を育てることを理念にしていた。同級生だった熊本市の末藤築一(小児科)は次のように例えた。「公立は講義のあと、本で確認するが、久留米大学は患者のもとに行った」こうした校風の中、伊豆、末藤を含め利紀たち医者の卵八十三人は昭和三十五年に卒業した。卒業年次に合わせた同級生会「三五朗会」を毎年一回開いて、今も交流を続けている。二O二ハ年の会には利紀も参加、マイクを握って挨拶する姿が写真に残っている。二O一八年は十月に福岡市であり、十一人が出席した。冒頭、「土屋利紀の思い出」を語る時間が特別に持たれた。伊豆の思い出の一つは卒業式のことだ。これについては利紀も語っている。「卒業式には医大生の半分くらいしか出ることができなかった」実際、卒業式直後の集合写真に利紀はいるが、伊豆の姿はない。の強い教授が自分の試験で「不可」にしたのだ。利紀は「半分」どういうことなのか。精神科のクセと言っているが、伊豆は自分も含めて第二章立志編51
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