【絆】土屋利紀の肖像
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「小さな頃から何かおもしろいことがないかと周りをいつもキョロキョロしていました」土屋利紀は好奇心の塊だった。この好奇心こそ人生の推進力だった。一九五四(昭和二十九)年、大口高校を卒業した頃には、栗野町にはもう、キヨロキヨロとする対象がなかった。「高校まで田舎で過ごしましたから、どうしても外国か東京に行きたいというのが夢でした。それで東京の学校へ二年間、行きました。東京は思った以上に大変でした。鹿児島弁が通じませんし、なんとか真似てごまかしながら会話していました。洋食というのを初めて知りました。フォークとナイフを使って食べたときには感激しました」言葉、文化を含めカルチャーショックを受けながらも、それを楽しんでいる利紀を見ることができる。実際、鹿児島説りは生涯、抜けなかった。東京時代も交友を続けていた利紀の小中高からの同級生、辻徹哉は言う。「紀ちゃんは自動車の免許を取り、レンタカーで伊豆までドライブしたこともあります」久留米大学時代50

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