【絆】土屋利紀の肖像
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ご諸に川内川でウナギを捕ったり、山でメジロを獲ったりしていました」今のようにテレビやゲ1ムがあるわけではなく、自然が相手だった。その川内川に敗戦後、関銃や鉄砲の弾を幾箱も沈めた。兵隊が去った後、子どもたちはその箱を引き上げ、宝物のように自慢していた。辻は言う。「それが暴発して、ある子どもの目を直撃し、その子どもは失明した」多分、子どもは土屋眼科に運ばれただろう。戦後の一九四七(昭和二十二)年、学校制度は「六・三・三・四制」になり、国民学校の名前も消えた。利紀は衣替えした新制度で、栗野中学に進学、自由で開放的な新しい時代に踏み出した。兵隊が機土屋家家族。入院中、いつもベッドの横に置いていた写真(後列右が利紀)32

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