して召集された。死をも覚惜した。出征のとき、自宅庭で家族と一緒に映った写真が残っている。その年に生まれたばかりの末妹の弘子は次のように語った。「六人の子どもを残して出征しなければならない父の気持ち、長男(利紀)の気持ちはいかばかりだったか」勇満は戦地まで行かなかった。熊本で軍医の訓練を受けていた一九四五(昭和二十)年八月に終戦を迎えた。その問、土屋眼科は休院したが、勇満は戦後すぐに帰ってきた。当時のクラスには都会からの疎開者も少なくなかった。東京から母の実家の栗野町に疎開してきた辻徹哉(八十四歳)日現・埼玉県在住Hもその一人だ。辻は言った。「疎開児はいじめに遭うことが多かった。当時、喧嘩ランキングというものが流行していました」学校のボスが辻に疎開児同士の喧嘩を命じた。辻が優位になったところで、ボスが相手に肥後守(ナイフ)を渡そうとした。それを見た利紀が割って入った。「それはないだろう」この一言でその場は収まった。利紀は疎開者という弱者を擁護し、卑怯さを嫌った。辻は、利紀は「一目置かれる存在だった」と言う。「勉強も運動もできた。それに家は医者。尊敬と言うか、どこかオ1ラがありましたね。喧嘩をしているところは一度も見たことはありません」戦争の影にいつもおびえて暮らしていたわけではない。少年らしい無邪気さで野山を駆け回っていた。山下洋は言う。第一章青雲編31
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