利紀は幼い目で「銃後」の風景を目撃することになる。栗野国民学校の校庭に、日本軍が駐屯した時期もあった。利紀より一級上で遊び仲間だった山下洋は言った。「将校クラスの人は民家に寝泊まりし、ほかは野営したり、校舎で寝泊まりしていました」戦争末期になると、栗野町にも空襲警報が鳴るようになった。住民は近くの防空壕に避難した。利紀と同級生だった白演久美子(八十四歳)は回想する。「警報が鳴るたびに、防空壕に逃げ込みました。煎った大豆を袋に入れて持っていきました」利紀はこのように語っている。「最後の八月に入って、二回くらい駅や学校が機銃掃射を受けました」姉の和子の証言はさらに迫真性を帯\びている。「操縦士の顔がわかるような近さでした」機銃掃射で栗野駅に停車中の貨物に積んでいた藁が燃え上がった。父の勇満は、昭和十九年に軍医と十左衛門(前列右)と熊次郎(後列左)(1904年)30
元のページ ../index.html#36