【絆】土屋利紀の肖像
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「軍隊に入って特攻隊員になって、飛行機に乗るのが夢でした」これが土屋利紀の最初の夢だった。国民学校の児重だった少年にこう言わせるほど、していた。利紀が生まれた三年後には日中戦争が始まり、太平洋戦争が火ぶたを切った一九四一(昭和十六)年に国民学校令が公布され、それまでの小学校は国民学校に改められた。国民学校という呼称自体が、教育が戦争体制に組み込まれていく一つの風景だった。利紀少年は太平洋戦争勃発のその年に栗野国民学校に入学した。クラスは「い」「ろ」「は」「に」の組にそれぞれ分けられていた。ただ、入学は一年遅れた。「学年で、喧嘩で一番になるためにわざと遅らせた」利紀は冗談気味に語っている。病気や早生まれなどもあって、母の美代が配慮したというのが事実に近い。当時、一学年で十人ほど一年遅れの児童がいたことから、入学年の規則は厳密ではなかった。戦時教育は徹底戦争の影第一章青雲編29

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