【絆】土屋利紀の肖像
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いて経験とスキルを磨いている。この中で、大島病院は父、熊次郎の住な奄美大島にあり、父子の結び付きを感じる。二十七歳で開業した。栗野町を選んだ理由について弘子は次のように話した。「長崎で勤務医として働いていたときに、えびの市(宮崎県)の医師の友人から「栗野の診療所に空きがあるから開業しないか』と声をかけられたと聞いています」勇満は開業した翌年の二月二十三日、鹿児島市の十一歳下の鯵坂美代と結婚した。保育園で働いていた美代は近所の魚屋さんで園児とその母親に偶然会った。その母親が美代を気に入った。「いい人がいる」と紹介したのが勇満だった。「お見合いでも恋愛でもなく、顔も見たこともはない、いきなりの結婚だったそうです。子どもが取り持った縁だと話していました」弘子が語るこうした「いきなり婚」は当時としては特異な形ではなかった。開業と結婚。二人は新天地で手を携えてスタートを切った。涼子は美代についても覚えている。「患者さんにやさしく、快活な人で、美代は鹿児島県立第二高等女学校卒で、小学校の教員免許も持っていた。保育の経験と合わせ、患者への奉仕の精神や子どもの教育にはふさわしい相手だった。「行列のできる土屋眼科」の土台を築いた人だ。性格は「母親似」ともいわれる利紀が長男として誕生するのは一九三四(昭和九)年二用十一日。紀元節に生まれたので「利紀」と名付けられた。診察室の横にあった茶の間でよくおしゃべりをしました」28

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