の横で洋は言った。「いつも、患者でいっぱいでした。でなく、近郊からも患者が来ていました」山下夫妻の話から患者に信頼され、愛された勇満の像が浮かび上がる。栗野町の教育委員会の委員長や町会議員に推されたのも勇満の人徳だっただろう。しかし、勇満にとって新しい土地、栗野町に開業したのは一つの賭けでもあったはずだ。医者を志望した理由について、利紀の妹の弘子はこう話す。「家が貧しくて、少しでも家計を助けようと思ったと聞いています」昭和九年十一月七日の日付の自筆の履歴書が残っている。一九二O(大正九年)年に長崎医学専門学校に入学、一九一一二(大正十一)年に卒業し、「医籍登録ス」。以後は下関市立高尾病院、鹿児島県立大島病院、長崎医科大学、九州帝国大学。開業まで四つの国公立病院で勤務医として働栗野町だけ27 第一章青雲編土屋眼科医院(栗野)
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