【絆】土屋利紀の肖像
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「祖父(熊次郎)は当時小学校一年生の父(勇満)だりを鹿児島市内の親戚に預けて奄美へ移住したそうです」熊次郎は跡取りである勇満の教育を考えて、鹿児島市内に残した。また、当時、鹿児島県内ではしねご」という制度があった。養子に出すようなもので、人の家に預けて心身を鍛練する、といった一種の人間教育である。このことも熊次郎の念頭にあったかもしれない。手先の器用さ。外科手術には必要な才能だ。その才は利紀まで引き継がれることになるが、事なのは、利紀に薩摩人の武士の血が流れていることだ。「敬天愛人」(天を敬い人を愛す)西郷の座右の銘である。薩摩藩の武士の志や魂を象徴する思想でもある。見渡すとき、この言葉は人生訓、医訓として銘記されることになる。勇満は旧制鹿児島一中から長崎医学専門学校(現・長崎大学医学部)に進む。会の曙だった。「人を愛す」。それが利紀率いる慶明同時に大利紀の生涯をや24

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