木村は、「都城大丸」から一九七九(昭和五十六)年に入職してから多恵子とは三十六年間の交わりだった。「いいときはそのままでいいが、悪いときは責任を取らなくてはいけない、絶対に逃げてはいけない」これは仕事人としての多恵子の顔だが、家庭人、生活人としての顔を木村は知っている。「料理は手際よく、上手でしたし、先生(利紀)が家で食べるときは必ず自分で料理は作っていました」世間離れしたところもあった。木村は車で多恵子を迎えに行った。指定された場所で待っていた。「専務(多恵子)は前のタクシーに乗ってしまいました。このほかにも同じようなことがあり、そのときは前に止まっていた知らない車に乗って、シートベルトまでしていました」ファッションについてはありがちなブランド品をそろえて着飾る女性でもなかった。「ブランド品ではありませんが、着こなしは上手でした」明るく、快活で、センスのよい姉御肌。これが周辺の多恵子像である。ただ、ループの戦友でもあった。それだけに喪失感は深かった。「妻を亡くした位歳男の決意」と題したメモを残している。「心疾患、脳疾患、糖尿病、高血圧症の持病あり」と但し書きが付いている。「病に負けず、認知症にも負けず、情熱を燃やし、やりたいことを精一杯やり、美しいものには素直に利紀にとっては慶明グ庭を清掃する「三人娘J(2018年12月)170
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