勇満は栗野での開業時代、ゆっくりと旅行したこともなかった。利紀は両親をハワイ旅行に送り出した。「初めての海外旅行で、楽しかったと言っていました。そのとき親孝行できたかなと思いました」勇満が脳出血で倒れるのは、利紀が宮崎の学会に出席し、その後の懇親会にも顔を出して留守にしたときだった。「夜、急患があって父が診療し、また三十分後に急患があった。このとき、字が書けなくなり倒れました。夜も診るのが父の信条だったのですが、もう夜は診るな、と言っておけばよかった・:」利紀は後悔を持って振り返っている。勇満は自らの眼科医の信念に殉ずる形で倒れた。「中学校の頃に祖母が倒れ、十年間寝たきりで亡くなりました。父も十年間寝たきりで亡くなりました。そのとき自分が看取られる身になって、住める場所を作りたいと『さくら苑』という施設を作りました」自らの体験と時代の要請がミックスされて「慶明会」がスタートした。当時、現在のように介護システムはまだ、幅広く認知されてはいなかった。「最初は皆さん、姥捨山のような感覚でした。施設で亡くなった方をご家族が家に連れて帰るときも『さくら苑の方はお葬式には来ないでください』と言われました。ご近所に対して、自宅で亡くなったようにしたいからということでした。また、ご本人がせっかく施設で死にたいと言われるのに、病院に急速、搬送するということもありました」利紀は「仕事に対して」の五カ条を記している。〈良きライバルを持とう〉〈勉強は自分でするもの〉第六章福祉編157
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