表現できないために、視覚障害という非常に小さなサインを出しているのです。それを早めにくみ取ってやり、家庭や環境を整えるとともに本人の自立を促していかないと登校拒否や社会からの逃避などの症状として現れます」利紀は自分の病院に「心療眼科」を開設したり、当時、少なかった心理カウンセラーを置いたりした。「目で、すべてがわかる」利紀はいつもこのように強調していたが、まさに心因性視覚障害はその一つであった。現代はストレス社会である。利紀はこうしたテlマに早くから向き合っていた。「子どものうちに原因を追究して治してあげないといけない」利紀は、子どもの将来のために「児童と目」に注目していた。弱視教育にも貢献している。一九七九(昭和五十四)年に弱視教育研究会を設立している。弱視児の治療をするとき、教育面の指導をする先生がなく、受け入れ体制が整備された施設もなかった。「昔は0・ーから0・2の弱視の子どもたちは特殊学級に入っていたんですが、この子どもたちは普通に生活できるんです。なるべく、一般の生徒と生活させてほしい、と相談しました」研究会の要望によって宮崎市内には弱視学級という教室ができ、体育や音楽は一般児童と一緒に学んだ。利紀の肖像は多面体である。「事業家」で一貫した研究者。これも実像である。「経営者」といった、いわば派手な面の顔だけではない。地道140
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