の晶一(五十五歳)は、まだ医大生だった。欣一と利紀は久留米大学の同級生である。晶一は小さい頃から利紀を知っていた。「私が幼稚園の頃から、土屋先生が福岡に来たときにはうちに顔を出していました」欣一の死で、広瀬眼科を閉じようとの話も持ち上がった。葬儀が終わって約一週間後、利紀が広瀬眼科を訪れた。欣一の妻から相談を受けていた。「医院を継ぐまで、うちで回すから閉めるな」利紀は同級生のために、ひと肌脱ぐ決意を示した。宮崎中央眼科の医師四人をローテーションで組み、回すことにした。寝泊まり用のマンションも一室、医院近くに確保した。現在も勤務している当時のスタッフは語る。「先生方は一週間交代でした。土屋先生もときどき来られていました。てきぱきとした先生でした。医院が閉じたら、どうしようかと思っていましたので、うれしかった。患者さんもよかった、と喜んでいました。私たちも一週間くらい、宮崎の病院へ研修に行きました」出張診療の医師の一人は大浦福市だった。利紀から突然「辞令」を受けた。「突然のことで驚き、妻からは子どもが小さいのに不在が多いと困ると言われましたが、気持ちを切り替えるしかないと考えた」お土産もあった。当時、白内障の最先端技術である無縫合手術をしていた近くの眼科を見学し、その手技を宮崎に持ち帰った。広瀬眼科の患者を宮崎中央眼科病院で手術したこともあった。同じ小郡市には久留米大学の同級生だった亀井英也(外科)の「協和病院」があった。第四章雄飛編129
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