【絆】土屋利紀の肖像
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「五十代は人間性を磨け」牧野は利紀の遺訓として、いこうとしている。土屋眼科医院から次のステップの宮崎中央眼科病院へ。名称変更について利紀は語っている。「私がもし亡くなって、新しい医院長が継いだら、土屋ではおかしくなる。みんなで育てていこうと思ったからです」名称を変えることには「子どもたちから反対があった」と言う。「私がまた一人で診療所を始めるときは、土屋眼科にする、と説得しました」「中央」としたのは正解だった。この病院は各地のサテライト(診療所)と結ぶ核、軸になる。グループのサテライト展開へのヒントになるのは福岡県小郡市の広瀬眼科への出張診療だった。広瀬眼科医院の贋瀬欣一が五十四歳で急死するのは一九九O年(平成二)年のことだ。長男若い世代に伝えて旧宮崎中央眼科病院(1979年)128

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