【絆】土屋利紀の肖像
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もちろん、うどん屋の買収は成功し、土屋眼科の前にあったほかの屈の買収にも協力した。前村が宮崎市で不動産業を始めたのは二十四歳の若さだった。鹿児島生まれだった。父が宮崎県延岡での河川拡幅工事に従事し、そこで独立し、不動産業を始めた。前村は関西大学を卒業した。父が言った。「九州に帰って来い」延岡は企業城下町で嫌だった。父も宮崎市での起業に賛成だった。起業、といっても一人でのスタートだった。利紀が前村を信頼したのは仕事の実力もあるが、同じ鹿児島の地から来て、一人で一歩を踏み出した前村に若き自分を重ね合わせたことにもあった。ゴルフだけでなく、船でのトローリングにもでかけた。「眠っている聞に、カジキマグロが釣れていたこともありました。トイレが長いので船酔いを心配して声を掛けると『酔っていない』という口に吐いたごはん粒が残っていました。負けず嫌いな人でした」公私共のつきあいだった。利紀は次々と事業を展開していくが、アジア進出も考えていた。中国だった。一九九三年頃、黒竜江省の現地に前村も同行した。なぜ、中国を狙ったのか。「算術と仁術と思う。算術で言えば、目の悪い人が多かった。それは患者さんが多いということです。仁術で言えば、そういう患者を診療したい、ということのようでした」現地視察の中で、患者にも会った。その中でわかったことがあった。「患者さんが信用できない。白内障の手術を受けて治っているのに、治っていない、と言う人がいるんです」このようにしてアジア進出は幻に終わった。眼科医は少なく、人口は多く、経済成長も著しい中国に121 第四章雄飛編

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