していたが、そのような話はしなかったようだ。中山に対してストレートに日本、宮崎の医療改革についての具体的な要望、陳情もしなかった。「厚生省(厚生労働省)の医療行政が現場を知らないということをよく聞かされました」利紀は宮崎の旧2区当時、中山の選挙区外であった1区に後援会を組織して、後援会会長として物心両面にわたって支援している。一九九六年、小選挙区制の導入によって、中山は宮崎1区から出馬することになった。「より身近になり、家族ぐるみのお付き合いをしていただきました。包容力のある温かい人柄で、お亡くなりになる一カ月前の最後の選挙では車椅子に乗って出陣式に出てこられた時は驚きました」利紀は政治家にならなかった。しかし、グループの引率、統括などは政治家的な資質がなければ成し遂げられない。その意味では利紀は十分、政治家であった。雄飛編第四章前村とクルージング。左が利紀、右から2番目が前村119
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