【絆】土屋利紀の肖像
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かったようで、(略)夫婦四人で東北を旅して山形県天童でサクランボをたらふく食べたこともあります」医者仲間で「朋友会」を作り、定期的な交流会を聞いた。住吉にとって利紀はゴルフでは師であった。「そのうち彼がゴルフを勧め、道具一式を大工町にあった練習場に用意してくれました」宮崎医科大学は二OO三年に、宮崎大学に統合され、住吉は学長に就任した。「彼(利紀)から本音の、宮崎の医療事情や政治、経済の情報を得、中山成彬前文部科学大臣とも知り合いになり、それが病院長や学長をつとめるのに、どれだけ役に立ったかは計り知れません」これは住吉からの謝辞ではあるが、利紀にとっても宮崎の地での再会は官民協力を含め、自分の足場を築く上で力になったことも確かである。利紀は最初に開業した大口を脱出したことの一つに「冬の寒さ」を挙げているが、小中学時代に、裸足通学した住吉もこのように記している。「その頃、雪が膝頭まで積もることもあり、外はマイナス五度にもなる霜の朝もありました。あまりの冷たさに途中で足に小便をかけることもやりましたがこれは愚策で、下校時には足に輝が入り痛みを伴いました。それで、まず、小便をしてその上に足を載せるようにすると具合がいいことに気づきました」大旦高校の校歌の作調者は地元出身の作家、海音寺潮五郎である。〈朝あしたには雲湧きおこり夕べには茜かがやく・:〉大口の風土を経験した者同士、その交流にはさまざまな思い出話を含め、特別な感情が往来した。利紀が長く愛飲した焼酎は、大口の「伊佐美」だった。一年近く経ってお互いに認識することとなり、家族ぐるみの親密な交流が始まりました。ひび第四章雄飛編117

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