【絆】土屋利紀の肖像
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には東京・六本木にも「六本木コンタクトレンズセンター」を開業している。「コンタクトレンズの会社から『出てこないか』と言われて出庖した。人がぞろぞろいる。でも、人が多ければ、患者さんも多いというわけでなく、やはり、患者さんの多いところでないとダメです。一年半くらいでやめました」東京進出は中座したが、宮崎ではコンタクト、眼鏡を販売する「アイトップ」に名前を変えて、現在、生目庖など六庖を展開、グループの一翼を担っている。出向期間を終えた畦地に、利紀は再び誘いの声を掛けた。「病院を大きくしたいから手伝ってくれ」利紀は土屋眼科医院を全面改築して一九七九年に「宮崎中央眼科病院」を開業した。畦地は日本コンタクトレンズには戻らずに病院に残り、人事やゼネコンとの交渉を担当した。妻の康代も採用され、経理などを担当した。その後、畦地夫妻は利紀と生涯に渡って共に進むことになる。「人を大事にする」利紀は人とのつながりを生涯、大事にした。畦地夫妻もそうだが、また、その畦地を通してさらに人の輪が広がる。その一人が宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町出身の看護師、吉田千代美だ。吉田は母親が福祉関係の仕事をしていたのを少女時代から見ていた。家の裏の女性が保健師をしていて、地域医療などに携わっていた。「こういう仕事があるのか」吉田が高千穂高校三年生のとき、人事担当の畦地が高校へ職員募集のために足を運んだ。113 第四章雄飛編

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