【絆】土屋利紀の肖像
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土屋利紀の事業拡大の手法の一つは引き抜きである。宮崎グリーンホテルのオープンの年に「土屋コンタクトレンズ」(一九七九年、中央コンタクトレンズに改名)も開業した。「新しい事業をする場合、その道のプロを迎えればいい」利紀を支えた畦地勝郎(七十六歳)も利紀の眼鏡にかなった一人だ。畦地は日本コンタクトレンズの鹿児島営業所に勤め、宮崎もその管轄だった。土屋眼科との取り引きがあり、出入りしていた。「コンタクトレンズの専門のクリニックを作りたい」利紀の父、勇満からこのような誘いを受けた。勇満は利紀の宮崎進出に合わせ、て、医院を手伝っていた。実際には利紀のアイデアであった。畦地は三年間の出向という形で赴任した。「当時、専門のクリニックは珍しかった。まだまだ眼鏡の時代で、若い人の聞でようやくコンタクトレンズの普及が始まった頃でした」いち早く、コンタクトレンズに反応したのも利紀の時代を見る眼だった。栗野町から出てきてい一九七六(昭和五十二年コンタクトレンズ112

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