宮崎市の土屋眼科医院の工事費は、契約書によれば二千六百九十万円だ。スタート時のスタッフは利紀、沖田を含めた八人の体制だった。利紀は病院内の配置図にはことのほか神経を配った。「動線をすごく気にする人でした」利紀の秘書をしていた出水典子はこう語った。利紀自身が動きやすく、患者がスムーズに流れる「動線」であること。どのような配置図になっていたかを知るのは、看護師として一九七一年(昭和四十六)年四月に入ってくる河野早首(六十八歳)だ。開業して二年後だ。職業安定所の「看護師募集」の案内を見て応募した。「医院は活気があり、先生は若くて、ハンサムだった」これが二十歳のときの河野の利紀についての第一印象だ。河野は記憶をまさぐりながら院内の簡単な見取り図を書いた。鉄筋の二階建て。玄関を入ると右手に受付があり、沖田がいる。正面は検査室。左手には視野検査室言い換えれば、どれだけ患者を効率よく診ることができるかということだ。数百人の患者102
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