ば、グループ拡大には攻めやすい地であったことも頭の隅で働いた。利紀は、あとさきを考えない猪突猛進型のタイプである。その一方で、宮崎の開業前には周到な準備をしていた。「宮崎開業一年前に、一時期出張所を作らせてもらって、週に一回、大口市から通っていました」利紀が語るように、開業半年前から宮崎市に隣接する宮崎県西都市の浦田外科内で、土曜日の午前中だけ眼科の出張診察をしていた。大口時代に事務職で採用された沖田一行は語る。「宮崎進出に向けての様子見ですね」明日を賭けた宮崎進出には不安感が伴うのは当然である。ある意味、最初の官険でもあった。西都市は宮崎市進出のための布石といったところだ。「近く、宮崎市内で眼科医院を聞きます」患者たちへの前宣伝にもなった。沖田は言う。「白内障の患者さんたちをここで確保して、宮崎で開業してから手術する戦術だったと思います」大口時代、土曜日の利紀不在をカバーしたのは鹿児島大学の医局にいた義弟の原田一道H現・慶明グループ会長Hだ。ただ、原田は利紀の西都市時代も別な視点から光をあてる。「眼科の研究者として一貫した姿を垣間見ることができます」土曜日の午後の時間をどう過ごしていたか。ゴルフ、麻雀をしていたわけではない。それは母校である久留米大学に特別研修生として通っていた。博士論文の仕上げのためだ。利紀は鹿児島大学の医局時代の一九六三(昭和三十八)年、久留米大学に特別研修生として「眼科学雄飛編第四章99
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