【絆】土屋利紀の肖像
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土屋利紀が雄飛するために鹿児島県大口市から宮崎市に進出し、「土屋眼科医院」を開業するのは一九六九(昭和四十四)年四月である。大口時代は約五年だった。「眼科医になったときから将来はグループでやっていこうと考えていました」利紀は、大口時代は先を見据えたワンステップと考えていた。なぜ、フロンティアの場所として宮崎に定めたのか。「(大口は)寒い土地だったので、住みやすい場所を求めて宮崎に来ました」青い空に、青い海。緑も豊かだ。確かに宮崎は住みやすいところだ。それだけではない。国策として「一県一医大」のビジョンはあったが、当時、宮崎には医大はなかった。とかくありがちな地元医大、医学部の学間もなく、また、極端に排他性の強い県民性でもない。「大口時代と同じように、新たな外部からの参入にはそれなりの抵抗がありました」周辺はこのように話すが、それも織り込み済みだった。すでに大口時代も経験していた。一言で一百え宮崎へ進出98

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